2010年12月

   いつもの事なんですが我が駄文はいつもいつも先が見えなくなる。

文才も博識も無いのに、言いたいことだけは細切れにいっぱいあるものだから、「活字に申し訳ないや…」ほんとに。今回もまた“感性”を書くことの無意味さ?曖昧さを逆手になんとか奮闘しております。
   まだ人間に遠く森に近いオレゆえしょうがない…でしょうね!

 あてがわれた風景 
   その“感性”を発揮して欲しいと思いながら皆さんと一緒に森を歩いているのだが、“それぞれの感性”だけに強制なんぞできない!?
   個々に面白いと思えばまた来るだろうし、つまんないと思えば来ない!それだけの事。ただ、勿体ないことが一つだけ“頭がカタ〜ィ”!

   それは自分で自分の風景を創れない(創ることの出来ない)ストレスという名の「現代病」に違いない。ダメな事に、人は誰も自分の“生きざま”を自分で作れないと云う「お節介の横行」に気付いていない。
(だんだん…自分でもチンプンカンプンに)

   人の世は全て「あてがわれた風景」の中で仮成熟し仮完成して終わる。…一番身近にそれが分かる場所があります!それぞれがホントを見つけられる場所、それが「森」なんだと思う。森を歩いて感じる気分の良さは、知らず知らずのうちに「自分を取り戻している」からなのだ。

   オレが森を案内することの底辺の一つに“自分の面倒は自分で見る”というのがいつもある。自分の感覚で自然を感じ、森の中の些細な事に感心する。そんな好奇心に素直にしたがうと顔も心も和む、そのための時間がここには流れている。森の中には贅沢にも「自分だけの風景」がいっぱい転がっているのだ。 

   「森の時間」にはアレだめ、コレだめ!なんて規則は無い。アレしろコレしろ!も無い。行き先も時間も気分優先!歩き遅れて間延びしようがほったらかし。寒けりゃ着込む!暑けりゃ脱ぐ。仏頂面にゃ「あなたに森は似合わない」と言い!いい顔には「似合う」と言う。

喋ることといゃ真面目?な冗談と不真面目な“森のウンチク”ぐらい。だからか、心身共健康なる老若男女がチラホラやってくるのだ!

   …それゆえほったらかしてる「森歩き」なんですが、一つだけ“あてがわれた風景”があります。それはニヤけたオレの老顔と、やけに好評な家内の「手作りおにぎり弁当」!

然るべく  
   今、この森の中にいる。 
枯れ葉を敷き詰めた径を歩き、今、冬枯れたブナの前に立っている。
常緑のユズリハが下に行きゃ行くほど疲れた緑色でおじぎをしている。
ムシカリの冬芽が裸のまま堅く閉じている、多くの冬芽は外套をまとい寒さをしのぐのだがこいつはそのまんまだ。オレも極力負けまいとガンバるのだが「オレの旬」はだいぶ前に通り越している…。
比べりゃ毎年「旬」を迎える木々たちには到底敵いようもない。

   目の前に立ちはだかる大きなブナ、枯れ葉をいっぱい付けたままのブナと殆ど枯れ葉を落としたブナとが隣り合わせている。ブナの枯れ葉は災難がなけりゃ翌年の芽吹きまでくっ付いているのが普通らしいのだが、なぜか毎年同じヤツだけが葉っぱを残す…。

   12月、雨風の荒れた日に多くの老木、半枯れの古木、大木が倒れた。もはや樹勢をなくしたブナの木々達なのだが、ふた昔ほどの付き合いを思えば直ぐには立ち去りがたく、やっぱり寂しい。けれど、土に還ることの当たり前を思えばこれが“然るべく森”…なのだ。

   旗坂にある升沢遊歩道は外周が断層の際にあり変化に富むのだが、これがまたハラハラさせる。案の定、突端の大木が意思半ばで転げ落ちている。云わず、巻き添えの木々を見りゃオレが生きていることの仕合せをなおさら想わなきゃいけない。

   ブナの寿命は約三百年と云われる。おん歳になると外見はすまし顔でも樹芯は殆どが腐土化している。されど樹皮だけで起つ生命力があるのもブナだ。寿命を越した巨木は長く森を“生かした”自負が漂っている。

  然るべく 
   たかが今夏の日照りで森を語っちゃいけない。
お日様のお陰で青葉の繁りがすごくいい、花が付いてない分栄養満点!
「秋は凄いぞ」と思いながら、今秋10年に一度の美しい黄葉を見た。

   ブナの不作を異常気象に転化しちゃうほど今年の夏は暑かった!けれど安心してください。もともと花を付けてないんですから実りようがないのです!その代わりコナラの実(ドングリ)が豊作でした。
   コナラ林はクマのフンでいっぱい!見ればストレスのない健康なフンです。最近は一人で森を徘徊することが少なくなった、なにかクマが羨ましく思えてきます。「いつかノンビリしにきます」
   そのクマですが、毎日のように新聞、TVを賑わせた。
発信者曰く…「とうとう人のエリアにクマが入ってきました」…!!