2011年11月

   森はすでに秋を越し晩秋を越し初冬の真っ只中。
11月16日、ここ升沢旗坂に積雪20センチの冬がやってきた。
朝から太陽が眩しく、時折強風が森の新雪を舞い上げている。
  気温1、2度の森の中は初もんの雪景色に相応しくキラキラしていた。凍て付いた雫が木々の小枝で煌めき、絡んだツタの先々で氷塊がしがみついている。
 
   こんな巡り来る季節の風景に感謝しながら、冷たくなった足の指先を誤魔化しごまかし徘徊を愉しんだ。

 森 語 り ・ 4 
 
  小径の途中、傍らの大木から朽ち落ちたアズサの枝が通せんぼをしている。初夏の堅果をいっぱい付け、老骨のごつごつした枝先にこれまたいっぱいの葉っぱを残していた。月日の経過で今は枝も実も黒々と瘠せて妖しげな造形美ばかりが目を引く。

 頭上15メートルからのこの落し物にはおまけが付いていた。
イワガラミだ。花弁じゃない白い飾り花が一枚付いている。ながい付き合いなのだろう!ツルの柄がアズサの枝と見紛うばかりに同化している。どう見てもアズサと一緒だ。蔓状低木だというから一応木なんだろうけど、やっぱりツルだからね、・・・自立出来ないんだからさ。(この不可思議がいいんです)
 
  この先、先人のいう「おっかない沼」の畔にでる。
山中で出くわすこの手の沼はやっぱり、怖いとか恐ろしいを意味する「おっかない」が似合う。街人のある意味鈍化した感覚と違い、自然に対する畏怖、畏敬の念がある。山に暮らす人の謙虚で素朴な感情そのままだ。
  厳冬の頃に雪で湖面が盛り上がる。見渡すばかりの雪原になると沼であることなど忘れ、ついつい不謹慎にも湖上で戯れてしまう。

   対岸の山中にズミの木がある。先日、枯れ落ちたコリンゴをかじったが渋味の中に林檎の味と香りを残す。間違いなく林檎だ。

 今年は木の実が豊作だ。春先の予感のままブナが6年ぶりに豊作になった。赤い実のナナカマド、アオハダ、アズキナシは未だにサビ色の森に趣を添える。彩るものがもう一つ、ツルウメモドキだ。山吹色のガク片にオレンジ色の実を付け一枝に幾つも連なる。正月の巷にも人気なのだがこれは白い森で見るのが一番美しい。

 山中の森は小規模ながら谷あり山ありですが、写真的思考によれば、季節天候を問わず谷あいに見る情景が絶対わくわくして愉しい。
言わずもがな明かりと陰の溜まり場をつくるからだが、それぞれに醸す空気の色が見えてくるのです。街にはない濃密な空気です。

   谷あいの小沢を渉る。冬枯れた幾重もの樹幹に斜陽が差すと、光り輝く曼荼羅の森が現れる。足元の枯れ葉は光を拾い温かい色を透過してまばゆいばかり。・・・都会の電飾が街人の“希望の光”であると同じように、オレの電飾はこんなありきたりの森にあるのだ。それも年がら年中。(・・・どうも話が三段跳び!)

   わずかの坂をつめると前方の痩せ尾根の際にクロベの老木が突っ立つ。根株に空いた丸い隙間から後方が見える。このクロベ、大きく割れた幹の中に二代目三代目の幹を抱いて小径を見下ろしている。
オレが生まれるずっと以前からここの空気の中にいた。今、ほんの少しその同じ空気の中を歩いている。

   “草木は森に習い、森は自然に習う”そんな初心を思い出させてくれるオレの「いい場所」の一つだ。

   雨の日にクロベを見るといい!濡れた大樹の幹は滑らかで深い朱色に光る。地衣の類だろう白い斑紋とのコンビは偶然とは言いがたいほど絶妙にして、息を呑むほど美しく輝く。

 熊 突 猛 進 

   まだ新雪の残るある日、雪を掻き分けた跡が一面に広がっていた。なにやら大きな大きな食卓だった。と、傍らの痩せたササヤブからオオクマが走り現れた。百キロ位か、丸々とした真っ黒い塊だった。
   気付けば既に目の前だ!1,2メートルの付かず離れずの戯れに、恐怖なぞ覚える暇もない束の間の遭遇・・・いや急襲!

   ここはクマの棲む森だ。クマの生活の真っ只中に入ることの自戒と自責が込み上げてくる。日頃クマ視線で森を人を語るのに、・・・なぜ怒られたのか直ぐ分かろうものを・・・。

   当日二度までも餌場を踏んでしまったこの現場で呑気にブナの実を漁ってしまった。頭をコツンとやられるのはオレの方だった。勿論コツンどころじゃない力任せの一撃で・・・。

   これが人里だったら(クマを気取る)オレは鉄檻の中で間違いなく鉛の玉を食らっていた。