2010年8月

   この森に通い始めた頃から“升沢遊歩道”界隈を徘徊している。
かたちを変えて今も毎月歩いている。オレの森中毒は多分ここから始まった。
四季を変え、月を変え、日を変え昼夜を変えて、
一年の内に五十回ぐらい通った。
(懐中電灯を手に汗した事など日常なのだ)
つまり1年間ほぼ毎週付き合ったわけだ。(はは・・・自慢話だ〜ね)

   こんな付き合いの仕方をこの山麓の幾つかの場所で持った。
人の世の処世術(煩悩)などとは縁遠く、草木に惚れ、森の万象に恋し、時に象のない気配に畏怖し、此処に潜む無数の森の記憶にどっぷり浸かった。

   森の事情   
   「だから何だ」と言われりゃ困りますが、一つ心に染み付いた。
言い古された陳腐な文句ですが「愛」。
間違っちゃ困りますが算術にたけたぬるめの人間愛ではありません。

   人は度々人生を悟るが如く自然界のあれこれを比喩します。
オレなんぞその最たるもんですが、その筋の皆さんよりは的を外さない。
なぜなら不真面目な三千回の付き合いがあるからです・・・簡単、オレは森だ!

  人が森で素ッピンになればなるほどに仕合せになれるもんが森にはあります。
(素ッピンとは、束の間大人をやめてバカになることです・笑)
仕合せ、それがどんなもんかはそれぞれ自分の目と五感で感じるほかない。この仕合せの和が“人の世の煩悩の数”を越えるとじわっと「愛」が染み出てくるのです。

  街の満たされた不自由の中で人生を終えるも良し、はたまた森の愛に溺れて人生を終えるも良し。いずれ生きても百才前後、壮年のブナ一本に敵わない。
   どっちだなんて野暮は言いませんが、せめて森に来た時だけは気持ちを解き放し、初心(うぶ)な自分を見つけて愉しむべし。

   ちょっとヤケクソ気味になったので小袈裟?に言いますと、流行で山や森に行っても多分続かないのです。(にわか自然愛好者が多いし)
あなたの身丈でいい、山森を楽しむとしたら知ったふりで50%を楽しむのでなく、残りの50を謙虚に五感でサボりながらこの森を楽しむのです。謙虚に・・・!

   森先案内魚   
  よく山釣りをしていました。(だいぶ前のこと)
釣れずともいい。それはそれは美しいヤブ沢の光景が次々と現れるのだから。

   実はこの岩魚“気”を読むのです。
釣り師は姿と音を隠して忍ぶのですが殺気だけは消せない。(性ですね〜)
腕前の差は仕掛けじゃない。あんたが殺人(魚)鬼か生活者か、それで決まる。

   つまり岩魚は釣り人を選ぶ。ちゃんと食べてくれる人を選ぶのです。
竿を持たずに沢を歩けば、岩魚のなんとノンビリ無防備なことか・・・。
大岩に腰を下ろし握り飯を食べていると、餌でもねだるが如く足下に集まる。

   コイツは森の現場に棲むだけあってオレより森に明るく敏感に森を写す。
手つかずの森は草木が生い茂り虫がよくつく、こんな森が上流にあると岩魚は喜ぶ。人為の森は薬をよく撒いた。餌が無きゃ岩魚でなくても子孫は残せない。

   豊かな落葉広葉樹の森はちょっとの大雨じゃ濁り水を出さない。そんな所のヤブ沢は青々とした岩苔と澄み色の水がいつも流れている。水棲昆虫も
いっぱいだ。

   【岩魚の好餌、カワゲラの仲間は2,3年を水中で過ごし羽化する。
水面で生まれたカゲロウは水上高く舞いペアリングし卵を産みつけ、その日、果てる。命を繋いで死ぬるこのカゲロウ、僅か数時間の“命”を舞います。
初夏の西日に身体を透かして水面に舞うのです。(そんな光景もだいぶ久しい)
心のポケットをひきだせば、その姿は森に棲むニンフのように儚く美しい・・・。】

   時に増水し岩を食むほどの激流に遭遇する。
岩陰に身を潜めた岩魚はその小さな胃袋に小石をいっぱい積み込みじっと
耐える。しばし、平水に戻れば小石を吐き出す。そんな逞しいヤツは顔つきが精悍で命を繋ぐものの誇らしさを感じる。

   学ぶ事は「獲ったら食う」。森に棲む命をしっかり認めなきゃオレの命まで
軽くなる。そんな気がしてちゃんと食う!コイツはオレにとって只もんじゃないのだ。嗚呼、人は食の連鎖に君臨し、己を自然に帰すことを忘れたちょっと変な
動物です。森にはリアルに生きることの術と、然るべく生きたものの美しさがあります。そんなことを確認しにいらっしゃい・・・森に。

   人は自ら作り出したもの、作ろうとしているもの、 そして遺したものに情を
込める。文化であり歴史であるものと同じ様にこの自然界を恋うることなどわけもない・・・筈。